ボールはトモダチだけど沈黙もトモダチ

みなさん、こんにちは。奥野ゆうです。
「沈黙」と聞いてまず何が思い浮かびますか?
遠藤周作の小説でしょうか。あれはなかなか重い内容ですよね。たしかマーティン・スコセッシ監督によって映画化もされました。
これから書く内容は、小説「沈黙」とは全く関係ありません。
先日のたいけんゼミのワークの中で感じた「沈黙」についてお話ししていきたいと思います。
ちなみに先日のたいけんゼミについての記事はこちらもあります。
普段の会話では歓迎されない「沈黙」ですが、対話では大歓迎。
日常の会話では沈黙はあまり好ましくない、良くないもの。というイメージが強いのではないでしょうか。会話がとぎれない方法を教える書籍も沢山売られていますし、沈黙が生まれるとなんか気まずい。気まずい空気にならないような会話をしなきゃ。とプレッシャーを感じてしまう人もきっと多いでしょう。
ところがどっこい「対話」において沈黙は大歓迎。諸手を挙げて迎えられて抱きしめられちゃうくらいウェルカムなのです。立場は大逆転です。ありがとうありがとう。(とは言っても意図的に作り出すわけではありませんよ。)
ただねぇ、僕らに染みついた沈黙ちゃんに対する「良くないもの」というイメージはなかなか強烈です。恐怖といっても過言ではないかもしれません。ホントはいい子なんですけどね。うんうん。
そんな沈黙ちゃんについて感じたことを具体的に書いていきます!
わかっちゃいるけど耐えられない。沈黙のプレッシャー。
先日のたいけんゼミで、話し役、聴き役、観察役の3人でのワークをやる前に、みなさんの前で伊藤さんが話し役、僕が聴き役となってデモンストレーション的なことを行なった時のことです。(いつも突然役をふられるのですがだいぶ慣れてきました。笑)
傾聴だけでなく、もう少し進めていこうというワークだったのですが、ワタクシやってしまいました。迫りくる沈黙ちゃんのプレッシャーに打ち勝てずに、言葉を換えて質問を重ねてしまいました。明らかに早いタイミング…。わかっちゃいるけどやめられない。頭の中では植木等が高らかに歌い上げます。反省。
しかし、転んでもただでは起きません。次のひとりの方の話を参加者全員で順番に聴いていくワークで、自分の番がまわってきました。
先ほどの反省を生かし、沈黙ちゃんのプレッシャーにも負けず、相手の言葉を待ちます。
結果
相手の方の本音を聴くことが出来ました。じんわりと嬉しいです。
最初と2回目の違いはなんだったのだろう。沈黙が怖くなくなる極意とは。
極意ってすごい言葉ですね。でもカッコいいから使っちゃおう。これから沢山使おう。笑
そんな大それたものではないですが、何が違ったのか自分なりに感じたことは、
①上手くやらなきゃという意識
デモンストレーションだから上手くやらなければ!という意識があったのだと思います。ベクトルが相手ではなく自分に向いちゃってます。これはダメですね〜。
デモンストレーションでも上手くやらなければいけないことなんかないんですよね。失敗も貢献ですから。計らずもこの時は多大なる貢献をしました。笑
②カウンセリングしようとしてしまった。
デモの時は、早く解決へ導こう。という気持ちがあったように思います。対話の段階をわかっていなかったから起きたことですね。あと、習ったことを使いたくなってしまう衝動。つまるところこの時もベクトルが自分に向いています。
③相手を信頼していた
相手の言葉を待てた時は、焦りもなくきちんと相手にベクトルが向いていました。そして、「待つ」ということを意識していなかったです。その時にあったのは、相手の方への信頼というかなんというか。今話してくれている事柄への答えは本人の中にあり、絶対に自分自身で答えを見つけられる。そういう感覚です。
この感覚があったかどうかが、大きな違いだったように思います。最初のワークの時はベクトルが自分でしたからお話になりません…。
お互いに信頼がある対話の中で生まれる沈黙ちゃんは、プレッシャーを感じるものではなくステキでした。あの雰囲気好きです。
体験してみたい方はぜひたいけんゼミへ。笑
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。